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812年
他の紀年法


できごと
フランク王国カール大帝の帝位を「僭称である」として認めなかった東ローマ帝国が、第二次ブルガリア帝国の台頭などによる脅威の増したミカエル1世ランガベーの代で、ようやくこれを容認し、アーヘンにて講和条約を締結する。ただし、ローマ皇帝ローマ人の皇帝)はコンスタンティノポリスのローマ皇帝(東ローマ皇帝)のみで、カールはフランクの皇帝であるとした(cf. 皇帝#カール大帝の「西ローマ帝国」)。また、カールは交換条件して、南イタリアの一部とヴェネツィア共和国およびダルマチアが東ローマ帝国の傘下にあることを認めた。
:その2週間後、東ローマ帝国軍が包囲戦によってクルム軍を撤退させる。

月日不明
:元首 治世下の移民
  • 第二次ロンスヴォーの戦い
フランク王国カール大帝がバスコニアに侵攻したの一局面 (cf. )。

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