ウィキペディア日本語版 Wikipedia - フリー百科事典
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812年
他の紀年法
干支
:
壬辰
日本
弘仁
3年
皇紀
1472年
中国
唐
:
元和
7年
朝鮮
: 元和7年
ベトナム
:
仏滅紀元
:
ユダヤ暦
:
できごと
1月13日
- 812年アーヘンの和約(/、
cf.
アーヘンの和約
、)
:
フランク王国
の
カール大帝
の帝位を「
僭称
である」として認めなかった
東ローマ帝国
が、
第二次ブルガリア帝国
の台頭などによる脅威の増した
ミカエル1世ランガベー
の代で、ようやくこれを容認し、
アーヘン
にて
講和条約
を締結する。ただし、
ローマ皇帝
(
ローマ人
の皇帝)は
コンスタンティノポリス
のローマ皇帝(東ローマ皇帝)のみで、カールは
フランク
の皇帝であるとした(
cf.
皇帝#カール大帝の「西ローマ帝国」)。また、カールは交換条件して、
南イタリア
の一部と
ヴェネツィア共和国
および
ダルマチア
が東ローマ帝国の傘下にあることを認めた。
6月-8月 -
クルム
・
ハーン
率いる
第一次ブルガリア帝国
軍が
トラキア
(東ローマ帝国領内)に侵攻。
10月15日-31日 -
クルム
率いる第一次ブルガリア帝国軍が、メセンブリア(Mesembria。現・
ネセバル
。東ローマ帝国領内)を攻撃し、占領する。
:その2週間後、東ローマ帝国軍が包囲戦によってクルム軍を撤退させる。
月日不明
ヴェネツィア共和国
が中心地を
トルチェッロ島
から島(現・リアルト地区)へ移す。
:元首 治世下の
移民
。
第二次ロンスヴォーの戦い
:
フランク王国
の
カール大帝
がバスコニアに侵攻したの一局面 (
cf.
)。
ハーフェル川
流域にて の一派 が反乱を起こすも、失敗。
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